まったり自分語りをしたいとき、はせさんのエントリの呼び水クオリティの高さは異常。
車によっても踏み込みの強さを変えなければいけないように、「このくらいで何でもOK」というのはないことを知りました。強く踏まないと進まないときもあれば、軽く踏んだだけなのに急発進して肝を冷やすこともある。
感覚的に出来る人もいれば、わたしみたいに自分自身を上手にコントロールするのが下手な人間もいます。これも運転と一緒で、だからダメ、というのではなく、下手は下手なりに「ちょうどいい加減」を覚えていけばいいのだ、と思います。
なにより大切なのは自分が苦しくないこと。リラックスして、自分を含め誰かを責めることなく、否定することもなく、緊張をといて、楽になること。
インターネットの備忘録
わかるわー。僕も地雷踏みまくったし・・・。
YESに転んでもNoに転んでも度合いがあることから「このくらいで何でもOK」というのは通らないよーという話であり、結局それも運転する道が違えばアクセルやハンドル操作が変わる。だったらもう慣れの問題やし、それぞれにあった「ちょうどいい加減」をゆっくり模索していけばいいじゃない、と。
でも模索するにしろ自分が苦しいと何も自分に残らないから、それはやめようよ、と。
難しいよね。相手の話の腰をおったりせずにNoって言わないでYESで返していけばお互い楽だと思ったら、心にないYESを積み重ねると自分の心臓が圧迫されて辛かったりするし。かといって本音をストレートにブチまけたら「それを言ったらおしまいよ」になっちゃう。嘘でもホントでもないことって人生には必要。吐いたツバは飲めない。これが0か100じゃダメっていう状態。
わかりやすく言うと「僕が苦しいのは貴方が悪いんです」 vs 「苦しいのは消化できない自分の心の問題」という、どっちに転んでも辛い状態のこと。その相手のことを知りたいと思えば余計に苦しい。人間関係って接点が多ければ多いほど自分の気持ちが相手に投影されるから反動も大きくなって、うれしいこともかなしいことも絶対値が上がっていく。そういう肌感覚を持っているパートナーがいる人は幸せです。プライスレス。
人間関係がうまくいかないのは色んな要因があると思うんですが、大きな要因の1つに「見返り」ってものがあると思います。こんだけやったのに、ここまでやったから、これをやればあれぐらいはしてくれるだろう。これ諸刃の剣だよね。僕はできる限りそーゆーのを全部やめてしまって、「僕がやりたかったんだから、それでいいじゃない」と考えるようにしています。相手のWhyを必要以上に求めるのは、どうしても必要なとき以外は結構辛いことじゃないかな。自分を含め誰かを責めることなく、否定することもない状態を成立できるのは、恐らくこの考え方しかない。
そうやって自分がコントロールできないコトに対して納得できる強さがあれば、大抵の問題は自分の問題に置き換えることが出来る。自分の問題だと理解できるってコトは、何をやっても自分に得るモノがあるし、何より学んでいける。相手の心の土壌が濁流になって流れてきても、自分の心の土手で吸収できる。そうなると、相手に対してもできる限りのことをやれるようになるってことにつながって、何かを「してくれた」人に対して、みんなどういう言葉で形容しているかわかる?
「優しさ」なんだよね。
だから、相手に対して優しくありたくて力になりたいのなら、手を貸したり時間をかけたり援助したりすることを自分の力でやれるようになるのが先だと、強く思っている。他人が苦しそうにしていたとして、じゃあ自分も一緒に苦しみますから大丈夫だよっていう考え方は、僕にはないや。
「人は、強くなければ生きてはいけない。人は、優しくなければ生きていく資格がない。」
この言葉が似合うおっさんになりたい。