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ござ先輩の主に技術的なメモ

ネット人格について考えてみた

ネット上のやり取りを難しくしているのは、当たり前のことなのですが、姿が見えないことにあると思います。姿が見えないってことは、その人の発言・言動しか目に見える判断材料が無いわけです。僕がこうやって書いていることは基本的に単なる情報にしか過ぎませんが、書き方次第・見せ方次第でそれは毒にも薬にもなっていく。僕は言葉で食っている所があるので、言葉ではいくらでも書けてしまう弊害があることも感じています。ただ、同一人物の書いている言葉ですから一定のベクトルというか色というか、そういうものが段々とブロガーの輪郭を形成します。

僕がこうやって書いていることは僕自身と同一ではないのですが、放たれた言葉は僕の手を離れて受け手の中で生きるので、受け手の中で僕の偶像ができる。それが悪いわけじゃない。文章からその人となりを想像し推測するのは、自然というか本能的な行いだと思います。それを受けて、どうするか。それがとても難しい。

名もなき詩というMr.childrenの歌の歌詞で「知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で もがいているなら 誰だってそう 僕だってそうなんだ」という一部分があるけど、コレがピタッとハマるなぁと思います。

ネット人格を捨てるって、ネット人格を作ってるから辞めたくなるんでしょ?作らずに地で行けば楽でいいのに

作らずにと思っていても自分の表現したものから作られてしまうから、ネットを辞めたくなるんじゃないかなって思った。その表現に対して築かれる仮想的な人物像に対していわれもない中傷が飛んでくるから、堪えるわけで。「こんなにも・・・こんなにも苦しいならブログなど要らぬ!」って自分を追い込んでしまうことって、案外些細なきっかけで起こりうる。

僕は、そういった些細なきっかけでネット上から発言する人が減ることを、寂しく思います。

ウェブ上に書き残していないことは山ほどあるから。自分の生い立ちや過去、自分の今の状況、自分の思想や理念。まだまだ表現していないことはたっっっっっくさんある。そしてもちろん、ウェブ上に書き表したくないこともたくさんある。率直に言うと、今までウェブ上に表現してきたことはklimという人格の氷山の一角に過ぎない。氷山の一角だけを見て氷山そのものが分かってたまるか!

ウェブで書いていないことなんて、僕もたくさんあります。書かないと決めてること、書きたくないこと、書いても意味がないこと、書きたくても書けないこと。僕は比較的オープンなブロガーかなと思いますが、その僕ですらウェブで書けることは限られた範囲のことでしかないと言えます。

言葉って、その発言者を超えた存在だと思うんです。だから僕は、言葉そのものとその発信者の人格は、基本的に分けて考えたほうがいいんじゃないかなぁと思うのです。表現はあくまでフィクションであって、その人そのものではありません。そう考えるとネット人格っていったいなんだろうなぁと、禅問答しちゃう今日この頃です。