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ござ先輩の主に技術的なメモ

日本語がどうして議論に向かないのか

日本語というのは、余程注意しておかないと、会話によってどうしても上下関係を規定してしまうのです。この対談のひろゆき氏のように「前提をも疑うロジカルな姿勢」というのは、ロジックとしてはどんなに正当でも、相手にとっては論理の基盤から崩そうという「敵意もしくは強権発動」に見えてしまうのです。

[JMM]「勝間=ひろゆき対談をアメリカから見ると」from 911/USAレポート/冷泉 彰彦

その辺のヒントが隠されている気がするので、僕なりにブレイクダウンしてみる。

上記記事でも指摘されている通り、日本語にはこういう特質があると思う。

  • 敬語・謙譲語・丁寧語など、相手との距離感・立場をわきまえたコミュニケーションを前提とする
  • 共有された前提は主語を省略することで暗黙化することができる

それを踏まえると、暗黙の了解になった主語について会話を続けていると「僕のいわんとすることわかるよね」的な空気感が醸成されてしまい、会話の中に上下関係が生まれる・・・ということなのか。それとも、単純に関係性を包含した上で会話をするのだからフラットでいること自体難しいんですよ、結果的に上下関係を規定してしまうんですよ、ということなのかな。

何にせよ自分の明確な主張を軸に会話が出来ないんだから、「言っていること」と「言っている人の人格」に明確な区分けが無くなってくることにつながるよねぇ。そりゃ議論には不向きですね、と。

相手の前提を疑えば相手の主張の基盤を崩すことにつながるから、明後日の方向から違う前提が飛んでくれば、あたかも「玉拾い」のように前提を疑われた方はあっちいったり、こっちいったりする必要がある。これを「上からモノを言われたような感じ」と受け取るのは無理も無い。マクドナルドで「ご一緒にポテトはいかがですか?」とコスプレ店員勝間さんが提案したのに対し、バッドボーイひろゆきは「ポテトってなんでついてくるんですかね?」って言ってるようなものだから。

自己主張性(assertiveness)と攻撃性(aggressiveness)は全く別のものなのだが、主語を明確にしない、前提を明確にしていない場合は相手の視点を考慮しないことに直結するので、主張に正当性を感じられず攻撃性につながる。ひとつの前提・価値観の中でごっちゃごちゃやりあえば、自分の視点と相手の視点の間に橋がかからないので、どっちが真っ当かの椅子取りゲームっぽくなって、攻撃のやりとりになっちゃう。日本語にはそういうフレームが少なからずあって、その辺も上下関係という言葉が出てくる所以かもしれないな、と思いました。

相手の言っていることを鵜呑みにするのではなく、相手の言わんとすることを汲み取る。

改めてこの大切さを思い起こした今日この頃であります。