文章というアウトプットと、良い記事の基準について。
頼まれてもいないのにまとめてレスをするお時間がやってまいりました。
エントリは記憶の融合
メインのブログでおちまさとのお言葉を紹介しました。エントリを書くことも同じことだと思う。
企画は記憶の複合に過ぎない。ある記憶と別の記憶をくっつけるわけですよ。すると、ある日突然2つ以上の記憶がくっついて企画が生まれる。
絞りだそうとしても、新たなインプットと自分がストックしたインプットが融合しないと、僕はエントリを書くことができない。「あ、そっか。これってこういうことだったのか」というひらめきがないと、思考を広げることは難しい。やるおで言うと「わかったお!」っていうのが無いと、アウトプットは生まれない。ちなみに僕も読書感想文が苦手ですし、今でも得意では無いです。だから書評の類は一切書かない。
ただ、「とりあえず言葉を搾り出すこと」というのはとても大切だと思います。思考を言語化する訓練はいっぱい積むべきです。社会に出れば、非常に多くの言葉に出会います。その言葉をどう自分が取り入れていくのか、そういう分岐点がいっぱいありますので。
klim0824さんにオヌヌメ
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良い記事とは
一般的に良い記事はこういうものだって明文化できるのか、あるいは、良い記事というのは読み手によってちがってくるものだと言うしかないのか。
僕の中では基準が決まっています。
考えるきっかけを与えてくれるエントリが、良い記事です。
そのエントリを読んで「役にたった」「うん、僕もそう思う」「いや、ここは同意できない」「うーん、それが正しいならばこっちはどうなんだろう」という思考を喚起させることができる記事が、僕にとって価値があるエントリです。なので、僕はそういうエントリを「良い記事」だと思っています。
「考えるきっかけを与えてくれる」というのは明文化できる尺度でありながら、良い記事ってのは個々人によって違うわけですね。どっちも内包しているんです。あうふへーべん。
ニュースサイトに取り上げられるってことは中の人のメニューに入れてもらえたってことなんで、充分意味があるし良いエントリに入ると思います。
そろそろランチですね。Have a nice lunch time!